祖父は高校時代にグレていた

大正7年生まれの祖父にまつわることなど

戦争教育に使われる教員

 戦時体制作りに協力するように、教職員の再教育が行われた。例えば、「八紘一宇」(アジアの諸国が仲良く一軒の家のようにまとまって、ひいては世界全体がそのようなまとまりになろうという、日本としての戦争目標。その場合の盟主はもちろん日本を念頭においてのこと)と「肇国の精神」(「八紘一宇」の考え方は、国が生成する過程で目指された考え方で、戦争遂行の根拠にしていた)との整合性をリポートにして、それを講習会で発表させた。

 また、満蒙開拓義勇軍(昭和七年に独立させた満州国へ、小学校高等科を卒業した若者を入植させて、満州の開拓に当たらせ、お嫁さんも世話して、定着させようとした)への理解を深めるため、茨城県の内原訓練所で、教職員に体験学習をさせた。

 児童へのズックなどの配給は、役場が一山東側にあったので、それを受け取りに半日を要した。

 昭和十六年(一九四一)には学制改革が行われて、小学校は国民学校と改名された。また、日本軍は七月に南部仏印に進駐して、米・英・オランダの日本在外資産を凍結するなど、諸外国との対立要因を増幅させた。

 十月に陸軍大将東条英機内閣が成立するに及んで、急速に開戦への途を進んだ。そして、十二月の真珠湾強襲・太平洋戦争へと突進し、ついに、心配した日が来たと思った。

 国民生活は逼迫の度を加え、米が配給制度となり、食糧増産の一環として、子どもに蛋白源としての兎を飼わせて供出するよう奨励された。

(祖父の自分史より抜粋、記述は1941年(昭和16年)前後、祖父23歳のころ)

 


教員の再教育

具体的に、おそらく軍国主義的なものだろうけれどどのような再教育があったのか、茨城でどのような体験学習が行われていたのか知りたくなって、国立国会図書館アーカイブを検索すると、すぐにそれらしい教員向け手引書が見つかりました。

オンラインでは閲覧できなかったのですが、司法大臣賞を受賞した論文集もありました。これらが、当時どう使われていたかまでは調べつくしていません、もちろん実際に祖父が使っていたかどうかもわかりませんが、少なくともこのような教育方針の指導が教員向けにあったようです。天皇を起源とした建国の考えを軍国主義と紐づけて、礼儀や献身さに落とし込んで説明をしています。

現在の私たちが勘弁してほしいと思っている同調圧力を教え込んでいます。

満州への入植についても詳しくは書かれていませんが、窓口のような役割をしたと読み取れます。他の章に、現地での苦労や戦後の引き上げのような、そのようなことになるとは思わなかったと、悔やむ言葉が書かれていました。

文部省にはテキストを書いた人がいて、それを使った祖父のような教員がいて、多くの人が戦地へ行き、満州で一旗揚げようと信じて向かった人がいて、一人一人は自分の役割を果たしただけかもしれないけれど、社会全体の向かっている方向やアジアのほかの地域で行ったこと、それらの結果を知らなければいけないです。当時は知らなかった人たちを責めるつもりはなく、少なくとも後の結果を受け入れ悔い改めるのであれば。そして現代の私たちは知らないでは許されないし、正当化することはできません。知るほどに、私もまだ何も知らないと気づかされます。