祖父は高校時代にグレていた

大正7年生まれの祖父にまつわることなど

戦時下に、上司に「こういうことでは困りますね」と言われる意味

 二年目の昭和十六年(一九四一)には二人の新任の先生が着任して、下宿屋へ三人で世話になることになった。

 そして、この年の十二月に対米英宣戦布告となった。気になっていた自体が到来した。私は二十三歳になっていた。当時すでに食料や衣類の配給制が始まっていて、この地域のわずかな扇状地にも、さつま芋の苗さしが行われていた。

 昭和十七年度(一九四二)には、新校長が着任した。新校長と私とは、母方の義従兄弟である。校長も下宿しなければならないので、校長と前年着任した若い先生と私の三人が駐在所跡の空き住宅へ、自炊ということで、住むことになった。飲用や風呂の水は、裏山から滲み落ちる水を溜めて置いて使った。清冽であった。仙人の生活のようだと思った。

 あるとき校長から、「こういうことでは困りますね。気をつけてもらわんと」と言われた。「どういうことでしょうか」と聞くと、校長は言いにくそうに「これは天皇制批判ですよ。おとうさんに分かると、心配しますよ」と言う。どうしてか、私のメモが目に留まったようだった。

 校長が言う内容は、私が承知している内容であった。メモそのものはそのとき捨ててしまったけれども、内容というのは<八紘一宇を建設して、その盟主に日本がなる、つまり天皇がなるというのが大東亜戦争(太平洋戦争)を聖戦として位置づける根拠となっているというのは、思い上がりである>という内容であったと思う。

 一億一心ということばのとおり、国民全部が一つの心になって勝ち抜かねばならないというときであった。校長の言う通りであった。天皇制批判など、もっての他であって、当時は「国賊」と言われるところであった。また一つ、失敗したと思った。

 けれども、根付きかけていた考え方を改宗することは、できそうになかった。天皇制の重みは理解してたと思うし、ただ戦争に利用することが、真の愛国心であるのかということも思った。

 そして、昭和十八年(一九四三)の四月に、別の国民学校へ転勤させてもらった。

 その後、山の子供たちは数年前(平成七年)まで、同窓会に招待してくれた。

 すでに六十歳代になっている子どもたちや、同席している当時の同僚と懐かしい思い出を語り合った。

 堅気の人たちだったので、それだけに、懐かしさも深かった。

(祖父の自分史より抜粋、記述内容は1941-1943年(昭和16-18年)、祖父23-25歳のころ)

 

田舎の何の変哲もない教師

地方の田舎の何の変哲もない教師であった祖父。政治が間近だった東京でもないし、愛国も反戦も強い主張があったわけでもなく、親も教員をしていた家の息子で、ちょっと田畑は持っていたけれど特別豊かではないし幸いに困窮してもおらず、でも言いたいことが言えない生活を象徴する出来事のように思います。本人も記憶に残っていたのでしょう。このエピソードは多くを考えさせられます。そして、現代の私たち、他国の状況とも比較してしまいます。

考えすぎかもしれないけれど、メモがなぜ校長の知ることになったのかそこに疑問は投げかけられていないけれど、本当に祖父は疑問に思っていないのか、誰かを非難するようなことは60年近く経っても書けなかったのかと、読みながら勘ぐってしまいます。