祖父は高校時代にグレていた

大正7年生まれの祖父にまつわることなど

「横須賀で訓練をして西へ向かった」

「横須賀で訓練をして西へ向かった」、「教員をしていたから徴兵が遅くて我が家は助けられた」。戦後生まれの母から聞けた祖父母(母の両親)の戦争に関する話はこれだけです。母が戦争の話題を好まないのと、祖父母もほとんど話してくれなかったようです。

子供のころ一度だけ、海軍の制服に帽子をかぶった祖父の白黒写真を見せてもらったことがあります。祖父母の部屋の箪笥の上のホコリっぽい箱から見せてくれたのを、今でも記憶しています。

祖父母から直接聞けた戦時中の体験は、当時勤めていた学校の運動場を畑にしてサツマイモを植えたということくらいです。ちょっと恥ずかしそうに、こういう話はもういいよと遠慮がちに話していました。子供時代の作文などでもっと聞いたかもしれないけれど、覚えているのはなかなか話してくれなかったこととサツマイモのことくらいです。

数年前に、テレビのドキュメンタリー番組で空母信濃が十分な試験をしないまま出航して沈没し、歴史からもみ消された話を知りました。1944年11月という戦争末期だ話だし生き残れた乗組員も隔離され口止めされたと聞いて、祖父も乗っていたのかもしれないと思ったことがあります。

祖父が書き残した自分史がなければ、これらの情報しか知りえませんでした。信濃には乗っておらず、横須賀での訓練は開戦よりも前で、教員をしていたため戦地へ送られる前に終戦になったということのようです。そして、これまでは本人が話したくないからだと思っていました。

それが、今回祖父の自分史を読んで、若い人は本人の自由にすればいいという祖父の思いがあったことを知りました。子供である私の母に対してもそうだったでしょうし、孫の私たちにもそういう思いを持っていたようです。戦争に関して多くを語らなかったのは、私たちが興味がないかもしれないからという配慮があったかもしれません。祖父自身の体験に影響されず、自分好きなことを選べばよいと考えていたことを知りました。