祖父は高校時代にグレていた

大正7年生まれの祖父にまつわることなど

素朴な少年時代の祖父

 小学校尋常化の中高学年になると、遊びが集団的になってくる。学校での最もおもしろい遊びは〝片脚陣取り〟とでもいう遊びであった。勇壮さがあり、競争心をあおった。

 当時の尋常高等小学校の鉱区は、現在のこの地域の小学校の校区と同じである。グラウンドの中央に大きな楠と栴檀の木があって、西側と東側に分けられていた。そして西側が男子、東側が女子の遊び場になっていた。生徒数はそれぞれ四百人ぐらいだったろう。このうち、男子のほうは大字ごとに四つに区分けされて、生徒も大字ごとのグループで、自分たちへの割り当て場所で遊戯をした。

 片脚陣取り遊びは、三年生以上高等科二年までの生徒(一、二年生は自分たちの校舎の近くの小さいグラウンドで遊んだ)が二手に分かれて、それぞれの陣地を守ることになる。

 遊戯開始と同時に、喚声を上げて、片脚で相手陣地へ向かって跳び出す。お互いにぶつかった同士が、誤ってもう片脚を着いたとか、ジャンケンに負けると、捕虜として敵側の陣地の後方へ連れて行かれることになる。

 ところがこの捕虜を、屈強な高学年生が、背の低い弱そうな子どもで守っているところを押しまくったり、片脚で飛び越えて、味方の捕虜に触れる。すると捕虜は、生還ということで、味方の陣地へ還る。最後に残っている捕虜の数の多い方が負けになる。

(祖父の自分史より抜粋、記述内容は1927-1930年(昭和2-5年)ごろ、祖父9-12歳のころ)

 

子供の遊びにも軍国の思想なのか

子どもの遊びって、どう発生するんでしょうか。単純な追いかけっこ(鬼ごっこ)などの、ヒト以外の動物もする遊びのように自然に生まれるものもあると思いますし、何百年何千年も前から伝わっているものもあるだろうと思います。例えば、ローマ時代からあるらしい缶蹴りとか、室内の遊びですが中国どころか古代メソポタミアあたりが起源と考えらる双六とか。時代を考えると、陣取りゲームのようなものは、大人が教えたか元々あったとしても広めた可能性を考えてしまいます。

戦争教育に使われる教員

 戦時体制作りに協力するように、教職員の再教育が行われた。例えば、「八紘一宇」(アジアの諸国が仲良く一軒の家のようにまとまって、ひいては世界全体がそのようなまとまりになろうという、日本としての戦争目標。その場合の盟主はもちろん日本を念頭においてのこと)と「肇国の精神」(「八紘一宇」の考え方は、国が生成する過程で目指された考え方で、戦争遂行の根拠にしていた)との整合性をリポートにして、それを講習会で発表させた。

 また、満蒙開拓義勇軍(昭和七年に独立させた満州国へ、小学校高等科を卒業した若者を入植させて、満州の開拓に当たらせ、お嫁さんも世話して、定着させようとした)への理解を深めるため、茨城県の内原訓練所で、教職員に体験学習をさせた。

 児童へのズックなどの配給は、役場が一山東側にあったので、それを受け取りに半日を要した。

 昭和十六年(一九四一)には学制改革が行われて、小学校は国民学校と改名された。また、日本軍は七月に南部仏印に進駐して、米・英・オランダの日本在外資産を凍結するなど、諸外国との対立要因を増幅させた。

 十月に陸軍大将東条英機内閣が成立するに及んで、急速に開戦への途を進んだ。そして、十二月の真珠湾強襲・太平洋戦争へと突進し、ついに、心配した日が来たと思った。

 国民生活は逼迫の度を加え、米が配給制度となり、食糧増産の一環として、子どもに蛋白源としての兎を飼わせて供出するよう奨励された。

(祖父の自分史より抜粋、記述は1941年(昭和16年)前後、祖父23歳のころ)

 


教員の再教育

具体的に、おそらく軍国主義的なものだろうけれどどのような再教育があったのか、茨城でどのような体験学習が行われていたのか知りたくなって、国立国会図書館アーカイブを検索すると、すぐにそれらしい教員向け手引書が見つかりました。

オンラインでは閲覧できなかったのですが、司法大臣賞を受賞した論文集もありました。これらが、当時どう使われていたかまでは調べつくしていません、もちろん実際に祖父が使っていたかどうかもわかりませんが、少なくともこのような教育方針の指導が教員向けにあったようです。天皇を起源とした建国の考えを軍国主義と紐づけて、礼儀や献身さに落とし込んで説明をしています。

現在の私たちが勘弁してほしいと思っている同調圧力を教え込んでいます。

満州への入植についても詳しくは書かれていませんが、窓口のような役割をしたと読み取れます。他の章に、現地での苦労や戦後の引き上げのような、そのようなことになるとは思わなかったと、悔やむ言葉が書かれていました。

文部省にはテキストを書いた人がいて、それを使った祖父のような教員がいて、多くの人が戦地へ行き、満州で一旗揚げようと信じて向かった人がいて、一人一人は自分の役割を果たしただけかもしれないけれど、社会全体の向かっている方向やアジアのほかの地域で行ったこと、それらの結果を知らなければいけないです。当時は知らなかった人たちを責めるつもりはなく、少なくとも後の結果を受け入れ悔い改めるのであれば。そして現代の私たちは知らないでは許されないし、正当化することはできません。知るほどに、私もまだ何も知らないと気づかされます。

 

戦争に反対する者にとって、戦いに勝っても”負け”

 昭和十七年度(一九四二)には、新校長が着任した。そして、新校長と昨年度新卒で着任した先生と私の三人が、駐在所跡の住宅で自炊生活をすることになった。物資の不如意の中、男三人の自炊生活は、何にしても味気ないものであった。

 そんな折、裏山手のお宅で、風呂や夕食に誘ってくれたり、南側の中部電力の住宅にいた駐在員の方が、よく野菜などの差し入れをしてくださった。温かい気持ちがとてもうれしかった。

 戦況の報道を聞くにつけ、勝ってもいいことばかりにはならないだろうし、負けても困ったものだと思った。言論統制はますます厳しくなって、河合栄治郎先生は検挙された。

 私が世の中を批判したメモを、校長に見つかって、「気をつけないといけない」と注意されたことがあった。

(祖父の自分史より抜粋、記述内容は1942年(昭和17年)前後、祖父24歳のころ)

 

祖父は、戦争に勝つことなんて期待していなかった

戦争に反対する者にとって、戦いに勝っても負けてもいい事なんて何もない。勝ち負けの議論ではないけれど、始まった時点でもしくは始まりそうな時点で、不安や無力感、焦燥感を感じていたのだろうと想像します。上司に注意されたメモの出来事の詳細は別の投稿で。

これは敗戦後の祖父の弁解ではなく、上司に注意されうっかり国賊呼ばわりされそうだったところからすると当時からそう思っていたようです。でも、もし弁解だったとしてもいいと思います、それを政府のせいだと正当化して被害者ぶるのではなくその後に間違いを認めるのであれば。さすがに祖父も、真っ向から戦争反対を唱える勇気はなかったようです。

 


戦争を始めない努力をしなければいけない

戦争そのものをしたい人はいないと思います。それでも戦争が起こるのは、それで利益を得る人だったり、憎悪や怒りを抱え続けた人の結果でしょう。多くの人が望まないのであれば別の方法で解決して、始めない努力をしなければいけないと強く思います。戦争に反対する者にとって、始まった時点で負けなのです。

書籍芦部信喜の中に、憲法九条に関する「政治的マニフェスト説」が紹介されていました。法学者の高柳賢三が1950年代に唱えたもので、政治をするものに直ちに義務づけるものではなく、理想を表明したものである、と。戦争や武力行使を永久に放棄することと、武力組織である自衛隊の両者が共存する矛盾は、今は矛盾するかもしれないけれど、為政者にとって今の状態が違憲ではなく、矛盾を解く方向に進まなければいけないという考えだそうです。私はとても納得しました。私は戦争と武力行使の放棄をしてほしいし、自衛隊も尊重する考えです。

(憎悪が戦争の原因となる点は、また別で書きたいと思います。)

 

戦時下に、上司に「こういうことでは困りますね」と言われる意味

 二年目の昭和十六年(一九四一)には二人の新任の先生が着任して、下宿屋へ三人で世話になることになった。

 そして、この年の十二月に対米英宣戦布告となった。気になっていた自体が到来した。私は二十三歳になっていた。当時すでに食料や衣類の配給制が始まっていて、この地域のわずかな扇状地にも、さつま芋の苗さしが行われていた。

 昭和十七年度(一九四二)には、新校長が着任した。新校長と私とは、母方の義従兄弟である。校長も下宿しなければならないので、校長と前年着任した若い先生と私の三人が駐在所跡の空き住宅へ、自炊ということで、住むことになった。飲用や風呂の水は、裏山から滲み落ちる水を溜めて置いて使った。清冽であった。仙人の生活のようだと思った。

 あるとき校長から、「こういうことでは困りますね。気をつけてもらわんと」と言われた。「どういうことでしょうか」と聞くと、校長は言いにくそうに「これは天皇制批判ですよ。おとうさんに分かると、心配しますよ」と言う。どうしてか、私のメモが目に留まったようだった。

 校長が言う内容は、私が承知している内容であった。メモそのものはそのとき捨ててしまったけれども、内容というのは<八紘一宇を建設して、その盟主に日本がなる、つまり天皇がなるというのが大東亜戦争(太平洋戦争)を聖戦として位置づける根拠となっているというのは、思い上がりである>という内容であったと思う。

 一億一心ということばのとおり、国民全部が一つの心になって勝ち抜かねばならないというときであった。校長の言う通りであった。天皇制批判など、もっての他であって、当時は「国賊」と言われるところであった。また一つ、失敗したと思った。

 けれども、根付きかけていた考え方を改宗することは、できそうになかった。天皇制の重みは理解してたと思うし、ただ戦争に利用することが、真の愛国心であるのかということも思った。

 そして、昭和十八年(一九四三)の四月に、別の国民学校へ転勤させてもらった。

 その後、山の子供たちは数年前(平成七年)まで、同窓会に招待してくれた。

 すでに六十歳代になっている子どもたちや、同席している当時の同僚と懐かしい思い出を語り合った。

 堅気の人たちだったので、それだけに、懐かしさも深かった。

(祖父の自分史より抜粋、記述内容は1941-1943年(昭和16-18年)、祖父23-25歳のころ)

 

田舎の何の変哲もない教師

地方の田舎の何の変哲もない教師であった祖父。政治が間近だった東京でもないし、愛国も反戦も強い主張があったわけでもなく、親も教員をしていた家の息子で、ちょっと田畑は持っていたけれど特別豊かではないし幸いに困窮してもおらず、でも言いたいことが言えない生活を象徴する出来事のように思います。本人も記憶に残っていたのでしょう。このエピソードは多くを考えさせられます。そして、現代の私たち、他国の状況とも比較してしまいます。

考えすぎかもしれないけれど、メモがなぜ校長の知ることになったのかそこに疑問は投げかけられていないけれど、本当に祖父は疑問に思っていないのか、誰かを非難するようなことは60年近く経っても書けなかったのかと、読みながら勘ぐってしまいます。

もやもやしている21歳

 昭和十三年度末に、どうせ教職に就くなら勉強しておこうと、専攻科へ入学することにした。

 昭和十四年(一九三九)には、日本軍は海南島に上陸し、陸軍大将の阿部信行内閣が成立、海軍中将の平賀譲が東大総長に就任して、その上申によって河合栄治郎土方成美の両教授が休職処分になるなど、内外の情勢は軍部の台頭へと激しく動いていた。

 専攻科では概して冷静な講義が行われていたが、目には見えない言論統制に、先生方も慎重にならざるを得なかっただろうと思った。

 兵役と勤務から解放されて、自由な思索にあこがれて入学した専攻科であったが、すでに戦時体制への切り換えが急を告げているときで、自分が求めた学生生活と実社会の動向との乖離による不安定な気持ちから逃れることはできなかった。そして国の将来がどちらへ転ぶか、瀬戸際へきているように思えた。

(祖父の自分史より抜粋、記述内容は1939年(昭和14年)、祖父21歳のころ)

 

専攻科へ行っても真面目に学べない

勉強熱心なように書かれているけれど、他の章も読んだ印象としては、そうではなくて祖父は自由な時間を過ごしたかったのではないかと思います。政治や戦争が近づく抑圧的な雰囲気、大学へ行けなかった悔しさなどがあり、素直に教員生活に収まりたくなかったのではないかと、文章の隙間から読み取れます。(大学へ行けなかったこと、河合栄治郎については別途記述予定。)

昭和16年真珠湾攻撃より約3年前。開戦はしていなくても、政治だけではなく教育機関へも入り込み、開戦へ着々と準備が進んでいると言えるのでしょう。もう後戻りできないところに来ているのでしょうか。どうしても、現在の政治、大学やジャーナリズムの規制や抑制 (”統制”未満と言えるのか) と比較してしまいます。現在はまだ平和な道に戻れると思ってこれを書いています。

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大規模国立大、合議体を必須に 学外者と運営方針協議(日経新聞、2023年10月30日)

大学に「公式見解」は要らない...大学当局が「戦争に沈黙すべき」3つの理由とは?(ニューズウィーク日本版、2023年11月15日)

Kalven Committee, Report on the University’s Role in Political and Social Action, Chicago University, November 11, 1967

 


改憲について勉強中

法律なんて1ミリも知らなかった私が、憲法改正についてただいま勉強中です。オンラインの講義を受けてみたり、憲法学者の著書を読んだり、これまでの改正の議論を調べたり。その中で知ったひとつが、国民投票法では公務員や教育者が国民投票運動を禁止しています。立場を利用した政治的発言は公正ではないように思いますが、憲法や歴史の専門家が意見を述べてくれなければ、私たちはどうやって正しく理解して判断ができるでしょうか。学者個人の見解を述べる機会や、教育機関でのオープンな議論はなければならないと思います。そして、憲法学者芦部信喜に関する書籍「芦部信喜」では、公務員の政治活動に関する裁判の記述では表現の自由は最大限重んじる芦部氏の意見が書かれていました。(新聞記者が書いたこの書籍は、資料の掘り起こしやインタビューなど緻密な調査に基づいて書かれていて非常に面白かったです。)

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改正国民投票法が成立 改憲手続き整備、論議環境整う(日経新聞、2021年6月11日)

「憲法71年 改正議論と国民投票」(時論公論)(NHK、2018年5月3日)

国民投票運動規制・罰則について(日本弁護士連合会、2006年11月2日)

教職員等の選挙運動の禁止等について(通知)(文部科学省、2019年6月3日)

 

 

昭和13年に徴兵され5か月間の訓練へ

 私の初めての教職への辞令は、県東部の郡の小学校であった。当時新卒者は、郷土以外の他郡市の学校勤務が通例であった。

 着任してみると、下宿先はすでに予約してくれてあった。中年夫婦のお宅で、近くに教員夫妻の家庭があって、その奥さんが同じ小学校に勤められていたので、よく面倒を見てもらった。

 私と同時にその小学校へ着任した新卒の先生があった。二人とも下宿生活であったので、よく行き来した。郷里の学校へ勤めるようになっても、お互いに訪ね合っていたが、数年前に他界された。

 私の担任は小学校二年の男女組であった。指導を任された幼い子らに、新鮮さを感じた。子らの純真さが心地よい。日曜日など、二、三人を連れて街や海岸へ散歩に出かけた。こうして、先輩の先生方の指導を受けながら一年間を過ごした。

 昭和十三年(一九三八)には、師範学校の行動で徴兵検査が行われた。検査前は私は寸足らずのため、不合格かもと思っていたが、結果は検査官から「甲種合格、陸軍を希望するか、海軍を希望するか」と質された。

 一瞬、ようやく一人前になったと思ったと同時に、返答にとまどったが、「海軍を希望します」と答えていた。

 横須賀海兵団へ入団したのが、四月一日だったと思う。短期の現役兵ではあったが、地元の皆さんは産土の八幡宮で、武運長久の祈りの式を挙げて、人並みに送り出してくれた。東海道線のトンネルを抜けて出た途端の、一面の桃の花は印象的であった。

 五か月間の海兵団の訓練の前半は、徒歩・駆け足・手旗・水泳・砲術・帆艇操法・カッター操法・航海術など、講義や訓練が行われた。訓練期間が短いので、実践に耐えるような、身につく訓練はおぼつかなかった。教員として、海軍に対する理解を深めるため、浅くてもいいから広くという方針だったと思う。

 海兵団における一とおりの教育訓練の後、駆逐艦「五月雨」へ乗艦して、演習をやりながら志布志湾への航海をした。

 たまたま「五月雨」が張湖澎(当時の朝鮮半島北側の紛争地)へ行くというので、私たち短期現役兵は、巡洋艦「鳥海」へ乗り換えて、呉から汽車で、海兵団へ戻った。それが八月中旬だったと思う。この後、まとめの訓練を受けて、八月三十一日に退団した。

 この間、五月の初めころだったと思うが、小学校で担任した生徒が(東京に移住していた)、母親と面会に来てくれた。大変懐かしかった。

 短期現役兵としての訓練を終えて、小学校へ帰ると二学期が始まっていて、五年男子を担任することになった。

(祖父の自分史より抜粋、記述内容は1938年(昭和13年)前後、祖父20-21歳のころ)

 

戦争は開戦の日に始まるわけではない

祖父は小柄でした。「ようやく一人前になった」とその時祖父が思ったのは、兵役へ行く祖父のことは現在の私にとっては喜ばしいことではないけれど、当時20歳ですでに父親 (私の曽祖父) が病気がちで、2人の姉と2人の弟がいる祖父にとって素直な気持ちだと思います。近所の神社で送り出してくれたようですが、勇ましくもなんともない祖父の姿を想像します。少しタイミングが違えば帰ってこられなかったでしょう。

開戦よりこんなに前に祖父が兵役に就いていたとは知りませんでした。そして、戦中戦後の話は多くの戦争体験として聞くことがあるけれど、戦前の状況をほとんど知らないことに気づきました。反対していてもそれを一人の個人で防げたとは思わないし、賛成していたとしても今の価値観で非難できないけれど、普通の人がどんな状況にあってどう感じていたのかを知りたいと思いました。

この自分史は、淡々と事実や祖父自身が感じたことが書かれています。感情的な記述は少なく、それもまた祖父らしいなぁと感じます。

 

 

タイムライン

祖父にまつわる出来事

1918年 (大正7年) 生まれる

 

1938年 (昭和13年) 4月-8月 兵役で海軍へ

1939年 (昭和14年) 師範学校専攻科で学ぶ

1940年 (昭和15年) 教職に戻り2校目の小学校へ転勤

 

2000年 (平成12年) 8月 自分史を書きあげる

2002年 (平成14年) 2月 他界

 

祖父の家族、親族

  • 父: 祖父と同じく学校の教員、昭和19年祖父が26歳の時に亡くなる
  • 母 (曾祖母): 働き者。私もうわさには聞いていたが、相当働き者だったらしい。私が幼稚園のころまで一緒に住んでいて晩年は認知症もあり寝たきりで、幼い子どもにはちょっと怖い存在だった
  • 姉1: 製餡所へ嫁ぐ。私の祖母が病気がちということもあってか、よく実家へきててきぱきと家事をこなしてくれたと、母からよく話に聞きました
  • 姉2: 嫁ぎ先は厚木。明るい人で、姉1と一緒に私が幼いころによく遊びに来てくれて、とてもやさしいおばあちゃん姉妹でした
  • 本人 (祖父)
  • 弟1: 婿養子へいったが、比較的近所のためよく行き来をしていた。囲碁が強い
  • 弟2: 祖父と10歳以上離れていたり母が一人っ子ということもあり、私にとっては叔父のような人。祖父が亡くなってからも、よくうちへ遊びに来てくれた
  • 妻 (祖母): 昭和20年に祖父と結婚。私の母が生まれた後に心臓が悪くなり大きな手術をしたけれど、私が小学生のころまで元気だった。優しい人
  • 子 (母): 一人っ子