祖父は高校時代にグレていた

大正7年生まれの祖父にまつわることなど

このブログを書いている理由

戦争は開戦の時に始まるわけではない

私がこのブログを書いている理由は、祖父の自分史に戦前のことが書かれていたからです。そして、日本国内の政治や世界情勢が騒がしく戦争が日本にも近づく気配を感じ、微力でもそれを防ぐために何かできないと考えているからです。

祖父が太平洋戦争の徴兵で訓練に行ったことは知っていましたが、それは昭和13年のことでした。開戦の3年前です。太平洋戦争は、昭和16年に始まったわけではないのです。

タモリさんが徹子の部屋で「新しい戦前」と言い、はっとさせられたのは私だけではないと思います。私には意外な驚きではなく、私自身が感じていた気配をズバリと的確に表現してくれたと思いました。そんなところへ祖父の自分史を読んでみると戦前の様子も書かれていました。そして書籍やテレビなんかでも戦中や戦後の様子は話によく聞きますが、戦前の話が少ないことに気づきました。

今の私たちの状況を理解するためにも、太平洋戦争前を少しでも知る意味があると思い、書いています。

憲法改正の議論

書き始めた2023年11月時点で、気にかかっているのは目の前に迫っているのは憲法改正です。数年前に法律(主にビジネス)に興味を持ち、その延長で全く興味を持ってこなかった政治について考えるようになりました。

法律の専門家ではない者が、学んで自分の意見を言うことに意味があると思って書くことにしました。憲法に関するオンラインコースを受講したり書籍を読んだりして、少しずつ理解を深めようとしています。現在の改正案にはどんな問題があるのか、今の憲法はどういう意味を持っているのか、そもそも憲法を変えることについてなど、気づいたこともここに書いていきます。

*私は法律の専門家ではありません。間違っている記述があればご指摘ください。

書き方

本文中に、祖父の自分史の一部分を抜粋して転記しています。祖父の個人的な書きものですので全てを書き起こす予定はありません。抜粋部分はなるべく祖父の文章をそのまま書き写すため、割愛を最小限にし、祖父以外の方の個人名や地名等は私の判断で書き換えています。

祖父が自分史を書き終えたのは2000年8月、82歳で、亡くなる一年半前です。

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祖父は何かの主義というほど強いものではないけれど自由な考えを持っていて、軍国主義共産主義に反対だったようです。孫としてそのこと安堵した気持ちがありますし感謝します。しかしそうではあっても、教員としてほかの方へ与えてしまった影響を悔やむ思いが端々に書かれていたり、私にとっても書くことは勇気がいることですし、祖父にも自分史にも書けないことがあるのではないかと思います。一方で、戦死された方はもちろん、戦後に様々な立場で苦労された方たちもあるでしょうし、当時や現在の多くの人や事柄に思いを巡らせながら書いていきます。

「横須賀で訓練をして西へ向かった」

「横須賀で訓練をして西へ向かった」、「教員をしていたから徴兵が遅くて我が家は助けられた」。戦後生まれの母から聞けた祖父母(母の両親)の戦争に関する話はこれだけです。母が戦争の話題を好まないのと、祖父母もほとんど話してくれなかったようです。

子供のころ一度だけ、海軍の制服に帽子をかぶった祖父の白黒写真を見せてもらったことがあります。祖父母の部屋の箪笥の上のホコリっぽい箱から見せてくれたのを、今でも記憶しています。

祖父母から直接聞けた戦時中の体験は、当時勤めていた学校の運動場を畑にしてサツマイモを植えたということくらいです。ちょっと恥ずかしそうに、こういう話はもういいよと遠慮がちに話していました。子供時代の作文などでもっと聞いたかもしれないけれど、覚えているのはなかなか話してくれなかったこととサツマイモのことくらいです。

数年前に、テレビのドキュメンタリー番組で空母信濃が十分な試験をしないまま出航して沈没し、歴史からもみ消された話を知りました。1944年11月という戦争末期だ話だし生き残れた乗組員も隔離され口止めされたと聞いて、祖父も乗っていたのかもしれないと思ったことがあります。

祖父が書き残した自分史がなければ、これらの情報しか知りえませんでした。信濃には乗っておらず、横須賀での訓練は開戦よりも前で、教員をしていたため戦地へ送られる前に終戦になったということのようです。そして、これまでは本人が話したくないからだと思っていました。

それが、今回祖父の自分史を読んで、若い人は本人の自由にすればいいという祖父の思いがあったことを知りました。子供である私の母に対してもそうだったでしょうし、孫の私たちにもそういう思いを持っていたようです。戦争に関して多くを語らなかったのは、私たちが興味がないかもしれないからという配慮があったかもしれません。祖父自身の体験に影響されず、自分好きなことを選べばよいと考えていたことを知りました。

大正7年は1918年

私の祖父が大正7年生まれというのは知っていました。ただ、1918年という西暦で考えたことがなくて、第一次世界大戦終結した1918年に生まれていたとは全く認識できていませんでした。祖父は今から20年ほど前に亡くなっています。

祖父と生まれ年の出来事、祖父と同じ生まれ年の人

ご自身の親、祖父母の生まれ年がどんな年だったのか調べてみると、いろいろな発見があります。Wikipediaに基本的なことは書かれています。1918年には豊田紡織松下電器が設立され、森永のミルクチョコレートが発売される。スペイン風邪が大流行し、世界で初めての航空郵便アメリカで始まり、ロシアでロマノフ一家が処刑され、日本はシベリア出兵を宣言し、11月にドイツと連合国が第一次世界大戦の停戦協定が締結される。第一次世界大戦が終わったときということは、ヒトラーの台頭の前なのです。

できごとも興味深いのですが、この年に生まれた祖父と同い年の人を眺めると、もっと歴史が鮮やかに見えてきました。1918年生まれの人は、ネルソン・マンデラルーマニアチャウセスクがいます。田中角栄中曽根康弘も。チャウセスクなんて歴史上のはるか昔の人だと思っていたし、マンデラ氏が祖父と同い年だったなんて、自分との共通点を持つと一瞬にして世界がぐっと自分の近くに寄ってくるのです。

絶対的におすすめです。親や祖父母の生まれ年をご覧になってみてください。

この時、ざっと眺めた時に、自分の目に留まる出来事や人物の偏りが面白いです。私は、祖父と同い年の人に、あのリチャード・ファインマンさんや、バーンスタイン、バイオリンのシェリングが、ネルソン・マンデラ氏や田中角栄なんかよりも真っ先に目に付いたのです。スポーツ選手や俳優に至ってはさっぱりわかりません。この年のノーベル物理学賞受賞者はプランク定数マックス・プランクです。

祖父概要

ここで話す祖父とは私の母の父で、2002年に亡くなりました。私は子供のころから一緒に住み、大学へ行くときに私は家を離れました。最初の就職は自宅から通えるところだったので2年半ほど再び一緒に住み、転職で東京へ引っ越した数か月後に亡くなってしまいました。あまり孫の私たちに関わる人ではなかったので、口やかましいことを言われたこともなければ甘やかされたこともなく、幼少期まで存命だった祖母とともに今思うと見守られていたという印象です。中学校と小学校の先生をしていましたが、私が生まれる頃にはもう引退していました。

ちなみに父方の祖父も私が小学生のころまで存命で、父の帰省の時にはいつも優しく、たまに顔を見せるからか、こちらが恥ずかしくなるくらい甘やかされそうな勢いの祖父でした。

祖父の誕生日は2月11日で、建国記念の日です。おかげで覚えやすかったのですが、母は「昔の人は勝手に日付を変えて、キリのいい記念日に生まれたことにするからね」と言っていました。実際祖父の弟、私にとって大叔父は1月1日生まれです。

ただね、母よ、建国記念日は昭和になってから決められたもので、祖父が生まれた時には祝日ではありませんでしたよ。