祖父は高校時代にグレていた

大正7年生まれの祖父にまつわることなど

昭和13年に徴兵され5か月間の訓練へ

 私の初めての教職への辞令は、県東部の郡の小学校であった。当時新卒者は、郷土以外の他郡市の学校勤務が通例であった。

 着任してみると、下宿先はすでに予約してくれてあった。中年夫婦のお宅で、近くに教員夫妻の家庭があって、その奥さんが同じ小学校に勤められていたので、よく面倒を見てもらった。

 私と同時にその小学校へ着任した新卒の先生があった。二人とも下宿生活であったので、よく行き来した。郷里の学校へ勤めるようになっても、お互いに訪ね合っていたが、数年前に他界された。

 私の担任は小学校二年の男女組であった。指導を任された幼い子らに、新鮮さを感じた。子らの純真さが心地よい。日曜日など、二、三人を連れて街や海岸へ散歩に出かけた。こうして、先輩の先生方の指導を受けながら一年間を過ごした。

 昭和十三年(一九三八)には、師範学校の行動で徴兵検査が行われた。検査前は私は寸足らずのため、不合格かもと思っていたが、結果は検査官から「甲種合格、陸軍を希望するか、海軍を希望するか」と質された。

 一瞬、ようやく一人前になったと思ったと同時に、返答にとまどったが、「海軍を希望します」と答えていた。

 横須賀海兵団へ入団したのが、四月一日だったと思う。短期の現役兵ではあったが、地元の皆さんは産土の八幡宮で、武運長久の祈りの式を挙げて、人並みに送り出してくれた。東海道線のトンネルを抜けて出た途端の、一面の桃の花は印象的であった。

 五か月間の海兵団の訓練の前半は、徒歩・駆け足・手旗・水泳・砲術・帆艇操法・カッター操法・航海術など、講義や訓練が行われた。訓練期間が短いので、実践に耐えるような、身につく訓練はおぼつかなかった。教員として、海軍に対する理解を深めるため、浅くてもいいから広くという方針だったと思う。

 海兵団における一とおりの教育訓練の後、駆逐艦「五月雨」へ乗艦して、演習をやりながら志布志湾への航海をした。

 たまたま「五月雨」が張湖澎(当時の朝鮮半島北側の紛争地)へ行くというので、私たち短期現役兵は、巡洋艦「鳥海」へ乗り換えて、呉から汽車で、海兵団へ戻った。それが八月中旬だったと思う。この後、まとめの訓練を受けて、八月三十一日に退団した。

 この間、五月の初めころだったと思うが、小学校で担任した生徒が(東京に移住していた)、母親と面会に来てくれた。大変懐かしかった。

 短期現役兵としての訓練を終えて、小学校へ帰ると二学期が始まっていて、五年男子を担任することになった。

(祖父の自分史より抜粋、記述内容は1938年(昭和13年)前後、祖父20-21歳のころ)

 

戦争は開戦の日に始まるわけではない

祖父は小柄でした。「ようやく一人前になった」とその時祖父が思ったのは、兵役へ行く祖父のことは現在の私にとっては喜ばしいことではないけれど、当時20歳ですでに父親 (私の曽祖父) が病気がちで、2人の姉と2人の弟がいる祖父にとって素直な気持ちだと思います。近所の神社で送り出してくれたようですが、勇ましくもなんともない祖父の姿を想像します。少しタイミングが違えば帰ってこられなかったでしょう。

開戦よりこんなに前に祖父が兵役に就いていたとは知りませんでした。そして、戦中戦後の話は多くの戦争体験として聞くことがあるけれど、戦前の状況をほとんど知らないことに気づきました。反対していてもそれを一人の個人で防げたとは思わないし、賛成していたとしても今の価値観で非難できないけれど、普通の人がどんな状況にあってどう感じていたのかを知りたいと思いました。

この自分史は、淡々と事実や祖父自身が感じたことが書かれています。感情的な記述は少なく、それもまた祖父らしいなぁと感じます。